私、以前死にかけたことがありまして。あれはそう、春先に、一人川釣りに出かけた時のことです。近所にある大きな川の、人気のない何か支流のたまり場のようなところに、ウキを浮かべて楽しくやっていました。そしたら、少し奥まった所の、枯れた倒木に針を引っかけてしまったのです。
仕掛けの数も残り少なくなっていて、引っかけた場所もそう遠くないと感じた私は、川に直接入って、針を外そうと思い立ったのです。とても愚かですね。どうしようかとしばらく考え、水を吸って重しになるからと服を脱いで、パンツ一丁になりました。川底がちょっと深そうだったので、そこらに転がっていた長めの枯れ枝を持って、それで川底を突いて進んで、帰りはこれを支えにすればいいと、我ながらナイスなアイディアだと、一人でテンションを上げていました。
そして、私は、パンツ一丁に枯れ枝をもって、冬の残滓をたたえた、青黒く揺れる川にダイブしました。
とんでもなく冷たかったです。春先の雪解け水を舐めていました。胸先まで一気に行ったのもよくなかったです。最初はもう冷たいというより、衝撃というか、全身を打ち付けたように感じました。脳みそも体も、その冷たさに一瞬硬直して、自分が今どういう状況かという認識は、あとから追いついてきました。このままじゃ死ぬ!っていうのだけがあって、もうパニック。あっぷあっぷと半分溺れたような状態でした。川底が一気に深くなるところまで飛び込んだので、枯れ枝は意味をなさないし、足は水を蹴るばかり、ただひたすら生きるために、死力を尽くして岸に向かて泳ぎました。
なんとか岸に上がった私は、びしょ濡れの体を抱えて笑いました。なんだか不思議で、面白かったのです。あと一歩のところで、私は死んでいたのです。もし、服を脱いでいなければ、もし、もっと奥に飛び込んでいたら、もし、水流がもう少し激しければ。そんな些細なかけ違いで、溺死していたかもしれないのです。冷たい水が肺を満たした、水死体として浮かんでいたかもしれないのです。脳が死んで、心臓が止まって、体も動かなくなって。私だった肉の塊が出来上がるところだったのです。
それまで他人事で、いつか自分も死ぬんだろうなって思っても、実感が無くて、生きるって何だろう、死ぬってなんだろう、とか考えて。死んでないから生きてるだけ。わざわざ死ぬつもりもないけれど、別に生きたいから生きてるわけじゃない、ていう、なにか悟ったつもりだった自分が、いざ死にかけると、もう必死必死。無我夢中でバタバタバタバタ。生きるために全力で、すごく生きたくて、死にたくなかったなぁと。現代日本の、ほとんど生存が約束された環境で、平々凡々とあたりまえのように生きてきて、曖昧になっていた生に、死が近づくことによって、ようやく実感がわきました。
死の恐怖はその日の夜にやってきました。日中は、何か変なテンションになっていて、いい経験したなぁ、ぐらいだったんですけど、一人布団の中でじっとしてると、ああ、もしかしたら死んでいたかもしれないと、急に怖気づいてきて、自分の体を抱いて震えてました。今でも、あの時のことを思い出して、怖くなることがあります。
そんな経験をして、実際死にかけても、今だ生死について確たることが分かりません。強度と頻度が足りないのかもしれませんが、どうにも死ぬ気になれません。表裏一体の生と死をどう思えばいいか、何も分からない。
私はいつか死ぬ。いつ、どこで、どうやってかは分からないけれど。死ぬということは確かだ。死ぬってなんだろう、生きてない状態が死? 死んだら無になるのかな。分からない。生きている私には、死ぬということが分からない。死んでいるのは死者だけで。死体はしゃべらないから、死がどういうものか語らない。どんな形であれ、あの世が存在するかもしれない。でも生者にあの世は観測できない。今生きてる人間は、100年ちょっとでみんな死んでる。私も死んでる。生きているから、いつかは死ぬ。なんだかとっても、不思議な話。
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